安らかな死を迎えるために


この世の生きとし生けるものは、いつか必ず死を迎える日がやってきます。死は自然の営みです。そして、死の多くは病がきっかけとなります。

ならば、病もまた自然の一部ではないでしょうか。事実、がんなどの大病をわずらっても、それを「自然な死のプロセスの一部」と捉えて受け入れた場合、老化が早く進行したように痛みも苦しみもなく、穏やかで静かな自然の死を迎えることができます。

いろいろな手を講じたものの、残念ながら病が進行し、死が避けられないものとなったときには、死を受け入れることが「安らかに死を迎える最大のコツ」になります。

しかしながら、現代の人々は「自然なこと」を怖がり、避け、「不自然」な道を選んだ結果、不必要な苦しみを味わうはめになっていることに気づいていません。

高度医療が発達した現代では、体が亡くなる準備を始めても、「少しでも長く、元気に生かしたい」と、栄養の補給に、体の機能を高める薬に……とありとあらゆる延命治療を施すことが、最善を尽くすことと考えられています。

むしろ、何もせず自然のままに死を迎えることは、「生きる努力を放棄している」とさえ言われかねない風潮すらあります。

確かに「できるだけ長く、元気に」と栄養補給をすることで、亡くなる直前までふっくらつややかな肌は保てるようになりました。

でも、がんも体と同様死ぬまで勢力が衰えません。本来ならがんも体と共にやせ細って死を迎えるためまったく出ないはずの症状、「出血、破裂、むくみ、嘔吐、痛み……」などが栄養補給のために強く出てしまうことがあるのです。

本来、死は自然な営みです。

青々とした葉っぱが枝から落ちるのは大変でも、枯れた葉っぱなら何の苦労もなくポロリと自然に枝から落ちるように、人も「枯れて死ぬ」のが自然でいちばん楽なのです。

また、前の章でもお話ししましたように、亡くなるとき、人は生まれたときのちょうど逆の道をたどります。

生まれたての赤ちゃんは一日寝てばかりいて、ミルクしか飲めませんが、だんだん起きている時間が長くなり、離乳食を食べられるようになり、 ハイハイし立って歩けるようになるころには普通の食事が食べられるようになります。

人が亡くなるときには、食べる量が減り、だんだん動けなくなり、流動食になり、寝ている時間が増え、 ついには水分だけを欲するようになり、 一日こんこんと寝ているようになる…。

それが最高に自然な逝き方です。こういう死には苦痛がほとんどありません。

苦痛なく死を迎えるためには、死が避けられないものになったときには、受け入れる心を持つことです。自然のプロセスを踏めば、死は怖いものでも苦しいものでもつらいものでもありません。誰もが安らかに気持ちよく死んでいける力を持って、生まれてきています。

ある高齢の方が亡くなる前にこんなことをおっしゃられました。

「肉体が老いて、自由が利かなくなるということは、ある意味幸せなことなのかもしれないね。肉体への執着がなくなって、『死ぬことは不自由な体を脱ぎ棄てて自由になることだ』と理屈抜きで思えるから、死が怖くなくなるんだよ。死ぬということは、古い体を脱ぎ棄てて、魂だけL戻り、また新しい体の中に生まれ変わる……ってことなのかもしれないねえ」

現代の医療は介入し過ぎるあまり、自然で安らかな死を奪ってしまったのかもしれません。

安らかな死を迎えたいならば、自然のプロセスを妨げず、流れがうまくいかない部分だけほんの少しサポートする医療がいちばんのように思います。

とはいえ、どんなに具合が悪くなっても「治るかもしれない。死なないかもしれない」と最後まで奇跡を信じたいのが人情というもの。

一〇〇パーセント心で死を受け止められるようになる必要はありません。

「助からないかもしれない……。死ぬのかも……。それならそれで仕方ない。でも、奇跡が起こると最後まで信じたい」と死を受け止める気持ち半分、奇跡を信じる気持ち半分でも十分穏やかな死を迎えることは可能です。

そして、「最後の最後まで奇跡が起こると信じること」は、医療スタッフには絶対にできない、家族や友人ならではの看護のような気がします。